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ごあいさつ


ごあいさつ

大手企業を退職し、知財業界に身を転じて早や40年の歳月が流れてしまいました。
ここで少し、知財業界に視点を置きつつ、日本経済の40年を私なりに振り返ってみたいと思います。

1970年代の後半

世の中には未だオイルショックの余韻が漂っておりました。
名だたる名門企業も倒産するという、戦後から続いていた高度成長期には考えられなかったような事態も生じ、高度成長時代の終焉を思い、世の中に不安定さを感じたものです。
中国では、専利法も未だ制定されておらず、知財業界ではその存在すら全く意識されなかった時代です。
日本は、1978年に特許協力条約(PCT)に加盟しています。

1980年代

1980年代になると、日本はオイルショックを逆手に取ったような省エネ技術を開花させ、また半導体でも米国を圧倒するようになり、電子立国日本と呼ばれ、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるような時代を迎えます。
また、ハードのみならず、ソフトの分野においても、1984年には、コンピュータの基本OS:TRON(The Real‐time Operating system Nucleus)が、坂村健氏により、既に、発明されていました。
後に世界を席巻するマイクロソフトの「Windows95」が世に送り出される10年以上も前のお話です。TRONの性能は、「Windows95」をはるかに凌ぎ、使いやすいと言われていました。

特許出願件数は、特実あわせると、45万件近くなり、米国の13万件を圧倒し(およそ3倍)、世界の出願件数の約4割が日本出願という特許大国の時代を迎えていました。

日本の台頭により、米国では主に自動車、製鉄、造船、半導体などの基幹製造業での衰退が目立つようになり、日米貿易摩擦の時代が幕を開けます。

米国ではレーガン政権下、ヤングレポートを受けてプロパテント政策が開始されます。
特許を武器として日本企業を狙い撃ちする時代の到来です。
ミノルタvsハネウェルの訴訟は有名ですが、これ以外にも、パナソニック、東芝、住友電工などの大企業をはじめ、どのような零細企業であっても、米国に進出していた日本企業はみな狙われる時代でした。

ちょうどこの頃、私は、米国特許法関連を勉強するために、ワシントンD.C.の特許法律事務所で研修を受けていました。
米国の特許弁護士にはよく言われたものです。
「日本も弾は持っているのだから米国に打ち返せ」と。
しかし、それは費用の面から、なかなか困難でした。
当時、侵害訴訟の弁護士費用が日本のおよそ100万円に対し、米国では一人1億円、少し大きな事件だと10人位の弁護士を必要とされたのです。
実に日本の1000倍近い弁護士費用が必要とされたのです。
また、米国は、技術を理解しない素人の陪審員が技術・法律を判断するという、日本企業にとっては圧倒的に不利と言われた裁判制度でした。経営トップが、提訴をそう易々と認める状況でもなかったと言えます。

プラザ合意と円高の進行

1985年9月22日、ニューヨーク・プラザ・ホテルで、5か国蔵相・中央銀行総裁会議が開催され、ドル以外の通貨の上昇を望ましいとすること、「黒字国日本」との表現を挿入することなどの決着が図られた、いわゆるプラザ合意が発表されます。
9月20日の1ドル=240円台から円は急騰、9月末には216円台、年末には200円台まで上昇し、1987年、年末には、1ドル=120円の水準にまで達してしまいます。
日本からの輸出品は相手国にとっては一挙に2倍近い値段となってしまったわけです。そうやすやすと輸出できる状況ではなくなります。円高不況を招き、輸出産業が大打撃を受け、東京や大阪の町工場の倒産が続出していました。
当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在とは比較にならないほど大きく、日本での製造をあきらめ、海外、主に中国に生産拠点を移す、製造業の国外流出もこの時期に本格化しています。

日米半導体協議

米国半導体協会は1983年、日本の半導体産業に対する批判を始めます。その翌年、日本の通産省と米国の通商代表部および商務省は、半導体の通商問題について話し合う作業部会を設置します。
1984年にはロス五輪が開催され、オリンピック効果により、テレビやビデオの販売が急拡大、爆発的なブームとなったパソコンも半導体需要を牽引します。世界の半導体マーケットは、前年比約50%増の260億ドル規模の市場に拡大しました。世界市場で圧倒的に売れ続ける日本の半導体を横目で見ていた米国はさらに怒りを募らせていきます。

1983年の日本の半導体メーカーの生産額ランキング

1985年はオリンピック効果の反動で半導体市場は大不況に陥ります。市況の急変は劣勢だった米国の半導体メーカーに、より大きな痛手を与え、日米の半導体摩擦は過熱の一途を辿っていきます。
テキサス・インスツルメンツ(TI)は同年に大量解雇を行い、インテルやナショナルセミコンダクター(NS)、モトローラも操業時間を短縮せざるを得ない厳しい状況に追い込まれます。

マイクロンは1985年、日本の半導体メーカー7社が不当にDRAM(当時は64K)を安売りしているとしてダンピング訴訟を提起します。
AMDやNSもダンピング訴訟を提起し、ついにはレーガン大統領が直々に米商務部に日本のダンピング問題について調査するよう命じます。

そして、1986年、ついに「日米半導体協定」が締結され、自由貿易に反し、米国が日本に米国製半導体の輸入促進を強引に推し進めることが許される時代を招いてしまいます。

包括通商法案

1987年5月、巨額貿易黒字国の貿易黒字を強制的に削減する条項、日本などの金融機関に米政府証券公認ディーラーの資格を与えないようにする条項、外国投資家の対米株式・不動産投資報告を義務化する条項、バイアメリカン条項などを含む法案が下院で圧倒的多数で可決されました。

日米半導体協定により日米貿易摩擦は解消されると期待されましたが、米国は1987年、第三国市場でのダンピングを理由に、さらなる報復措置を発表。日米は戦後最大の緊張状態に突入します。

レーガン大統領は日本が半導体協定に違反していたとして、日本製のパソコン、テレビ、電動工具に対して100%の報復関税を発表します。また、米国防総省が富士通によるフェアチャイルド社の買収を阻止するなど、日本企業に対する報復が続きました。

この時、上記しましたTRONも訳も分からず黒とされ、日本の通産省はTRONを引っ込め、後の「Windows95」の世界的ヒットの準備が整えられることになります。
日本政府は米国に対する報復措置は一切発表せず、やられっぱなしで、報復関税を掛け合う、現在の「米中貿易戦争」とは、全く様相が異なっていました。「日米貿易摩擦」とは言っても、「日米貿易戦争」とは言われない所以です。

日本の半導体メーカーは販売面で米国から多大な圧力を受けるようになりましたが、製造力を磨くことで対抗を続け、汎用品となった1MBのDRAMでは世界市場の90%近くを獲得し、先端品の4MBのDRAMの製造でも世界ランキング上位を席巻しました。

平成元年となった1989年には、日本の半導体大手30社の売上高は4兆円となり、半導体摩擦が起きる前と比べて7年で2倍に拡大。ニッポン半導体が世界市場の半分を獲得し、世界の頂点に立ちました。

世界半導体ランキング(1987-93年)

1986年に締結された日米半導体協定は1991年に協定期限の5年目を迎えました。日本の半導体産業の弱体化に成功しなかった米国は、新たな日米半導体協定を締結して日本への圧力を継続します。
新協定では、パソコンやテレビ、電動工具に対する100%の報復関税は解除されたものの、日本市場における外国製半導体シェアを20%以上にするという、具体的な数値目標が設定されました。
この間隙をぬって、韓国サムソンの台頭が始まります。

この頃になると、米国の半導体メーカーは知的財産権による侵害を理由に日本企業を攻撃することが多くなりました。1989年に日本でTIのキルビー特許(キルビー博士が発明したICの基本特許)が30年ぶりに成立し(いわゆるサブマリーン特許、後にサブマリーン特許が出ないように米国でも法改正が行われます)、日本の半導体メーカーが後に支払ったこの特許料は総額数千億円にも達したといわれています。
また、IBMも関連する技術を有する日本企業のすべてを訪問し、約3000社と包括クロスライセンス契約を締結し、年間で約160億円のライセンス収入を得ていたと言われています。

バブルの発生と崩壊

円高不況という文字がメディアから消え、多くの一般の人がいわゆるバブル景気の雰囲気を感じ取っていたのは、1988年頃から1991年2月のバブル崩壊以降、少し後までの数年とされています。
バブルは円高不況対策の一環としての政府・日銀の財政・金融政策による景気刺激策が発生の主要因とされています。
建設業、不動産業、ノンバンクがバブル三業種と言われました。
バブル崩壊後、現在に続く失われた30年の時代に突入してしまいます。

日米半導体摩擦の終了

1983年の日米半導体摩擦から10年弱が経過すると、1992年にはパソコン需要に牽引されたインテルが半導体世界トップに躍り出るなど米国の半導体メーカーの回復が目立ってきます。
DRAMでは韓国サムスンが新たな日本の脅威となり、正面にはインテル、背後からはサムスンが襲いかかる構図が常態化してきたのもちょうどこの頃からです。
マイクロソフトは1993年に「Windows3.1」、1995年には「Windows95」を世に送り出し、いわゆる「Wintel」連合が完成し、米企業がエレクトロニクス業界の覇権を奪い返します。家電やオーディオ機器に強かった日本勢は徐々にかつての勢いを失っていきました。

日本を徹底的に叩き潰し、半導体の復権を果たした米国は、1994年、第2次日米半導体協定(1991年改定)の期限5年の満了をもって日米半導体協定の終了を決定。日米半導体摩擦は開始から13年後の1996年に米国の圧倒的勝利をもってついに終結します。

中国の状況

その当時の中国はどうであったかというと、中国専利法の審査指南(2010年版)を翻訳するに当たって、私が当時の中国を回想していた文章を見つけることができましたので、参考のため、ここに掲載しておきます。

『私が最初に上海に下り立ったのは、1988年春間近のまだ寒い時期であった。虹橋機場(ホンチャオジジャン)には上海専利商標事務所の彼が迎えに来てくれていた。質素な空港の荷物カウンターから出てくる私の荷物を一緒に受け取ってくれた時の様子が今でも昨日のように思い出される。宿泊に用意してくれていたホテルは田中角栄が日中国交回復の際に使用したという、上海では一番格式のあるホテルということであった。レストランの床は歴史を感じさせるフローリングであった。

彼と出会ったのは、前年の1987年、ワシントンD.C.の特許法律事務所においてであった。彼は中国の専利代理人の第1期生で、事務所からただ一人選抜されて派遣され、国費で米国へ専利法を勉強しに来ていた。 彼とは同室で勉強をした。日本語のわからない中国人と、中国語のわからない日本人であったが、彼の英語力のお陰で、二人の間には極めてスムーズな会話が成立していた。毎日、米国特許法、日本の特許法、中国の専利法を比較しながら議論しあい、休日は一緒に街をぶらついたり、食事をしたりしていた。「上海では休みの日の通りは人で溢れているのに、アメリカは何でこんなに人が少ないんだ」と言っていた言葉が印象的であった。

私は、さらに前年の1986年に日本の弁理士試験に合格し、永年の受験生活から開放された喜びに溢れ、米国での研究生活をエンジョイしていた。その当時の弁理士試験は、今とは比較にならない難関であり、西日本からは毎年わずかに10人前後の合格者(合格率1%前後)しか出ておらず、毎年あらたな実力者がどんどん溜っていってしまうという大変厳しい状況下の戦いが続いていた。最近では西日本の合格者も300人を超えるといえばいかにその当時の試験が厳しかったかお分かりいただけるであろう。それだけに合格したときの喜びはひとしおで、米国では将来への希望に溢れ勉強に励んでいたのである。

同室で勉強をしていたその彼が一足早く上海へ帰り、その後しばらくして私も日本へ帰った。間もなくして、上海専利商標事務所が主催して専利に関する初めての国際会議を開くから是非出席して欲しい、との連絡が入ったのが1988年の2月だった。
国際会議では、彼が英語で司会進行を務め、通訳を兼ねていた。また、国際会議全体のメインの通訳は何と彼の母が務めていたのである。後で聞いた話であるが、彼の母は北京大学で英語の教授をしていたとのことであった。

その当時の上海は、今の上海しか知らない人達にとっては別世界であった。一言でいえば、本当に貧しい上海であった。高層ビルは一つも無く、少し高いビルと言えば、私が宿泊していたホテルと、2、3の外資系ホテルがあるのみであった。現在は、アジアの金融センターともいわれ、400mを超える高層ビル群が立ち並ぶ浦東(プドン)地区も、その当時は、ビル一つとしてないただの原っぱであった。

朝、ホテルの窓から外を眺めると、公園で歩道で大勢の人達が太極拳をしていた。昼休みの頃には道路は大量の自転車で溢れ、自動車の陰はまだまばらであった。しかし、上海専利商標事務所の人達の目は輝いていたように思う。彼も彼の仲間達も外国からのゲストと英語で喋れるのが楽しくて仕方がないといった風に私の目には映った。

当時、エリートの彼の給料が8000円だった。日本のサラーリーマンの給料のおおよそ40分の1のレベルである。彼らから仕事は貰えても、お金は貰えないなと思った。宿泊したホテルのレストランで夕食を二人で済ませると、彼の一月分の給料は無くなってしまう。それでも彼はテーブルに載せられないほどの料理を注文し、上海では私が払うと言って聞かなかった。

次の日、彼の家へ招かれ、お母さんの作った手料理をご馳走になった。ホテルの料理とは随分違うが、これが一般的な中国の家庭料理だよ、と彼は言った。食事の後の雑談中、彼のお母さんが言った。文化大革命の頃は大変で、彼はほとんど学校で教育を受けられなかったの、と。少し寂しそうな横顔が今でも思い出される。上海から帰ったこの一年後に、北京では天安門事件が起こっている。中国の苦難の時代が続いていた。

最近、上海に行ったとき、このときの家の住所を頼りに、お母さんにでもお会いできればと思って、家を探してみた。しかし22年の歳月が流れ、人で溢れ、押し合い、圧し合いして乗ったバスは通っておらず、その道路の上には巨大な高速道路が走っていた。彼の家は立ち退きに遭い、その当りの風景はまるで変わっていた。

この頃は、上海を訪れ、外灘(ワイタン)から浦東の高層ビル群を見るたびに、同じ思いが脳裏を過ぎる。中国が経済発展を遂げ、人々が豊になり、上海世博会(シボホイ)を間近かに控え、街は世界中のどこよりも活気に溢れている。本当に良かったなと。文化大革命の頃は、おそらく現在の北朝鮮と変わらない状況にあったと思う。経済発展することなく、その頃の状態が続いていたなら、世界にとって如何に危険な状況を招いていたか、との考えについ及んでしまうのである。』

韓国の状況

では、後に、日の丸半導体のみならず、多くの分野において、世界市場から日本を駆逐していくことになる韓国の状況はどうであったでしょうか。

朝鮮戦争を経て、産業は壊滅状態となり、当時の韓国は北朝鮮よりも貧しく、世界最貧国の下から3番目位と言われていました。
この窮状から脱出するには、戦後の復興をすでに成し遂げた日本に頼るしか方法はない、と、戦前日本の陸士出身であった朴正煕大統領は、「現在の私があるのは、すべて日本の御蔭です。」と言って、日本に救いを求めてきたと言われています。
1965年に締結された日韓請求権協定に基づく経済支援を受け、「鉄は国家なり」と言われた時代、新日鐵の最新技術が注ぎ込まれて建設された浦項製鉄所が完成します。
やがて韓国は、漢江の奇跡と言われた時代を経て、1980年代半ば、鉄鋼、造船、建築の分野では、すでに日本をかなり追い上げ、東南アジアなどでは日本を駆逐するほどにまで経済成長を遂げてきています(ブーメラン効果)。
日本の技術支援を受け、経済の復興を遂げた韓国では、1988年にソウルオリンピックが開催されます。
当時、物価は未だ日本の1/8程度で、半導体の値下げ競争に勝ち抜く遠因となります。
半導体は、日米半導体協定により、日本企業の活動が米国により徹底的に抑え込まれていました。
日本は、上記ブーメラン効果の反省から、半導体製造技術についてはそうやすやすと韓国に供与しないようになっていました。
そこで、韓国サムソンが取った手は、東芝半導体製造技術者の土日だけのソウル通い(引き抜き)です。
優秀ながらもリストラ対象となっていた技術者をリストアップしておき、声を掛け、大量の技術者を引き抜き、引き抜いた技術者同士をさらに競わせます。高度な技術を供与できなくなった東芝社員はすぐに解雇される(雇用ではないので解雇という表現は正確ではありませんが)わけです。

このようにして、サムソンは日の丸半導体の虎の子の技術をどんどん導入・吸収していきます。
当時、買収されていた技術者の言葉によれば、サムソン電子単独の力でできるようなものではなく、韓国政府がらみであったのは明らかである、と。
政府からの徹底した支援を受け、半導体不況を契機に、値下げ競争に勝ち抜き、日本半導体を駆逐してゆくことになります。

このようなパターンは定着し、その後規模を拡大し、あらゆる技術分野に及んで繰り返されてゆくこととなります。

半導体の他、日本にとって特に影響が大きかったのは液晶技術ではなかったでしょうか。
サムソンは液晶パネル製造工場を、当初、自力では立ち上げることができませんでした。
そこで、サムソンが取った手は、今度は、世界一のシャープ製造技術者の土日だけのソウル通いです。
この当時は、サムソンは既にかなり巨大企業となっており、東芝半導体製造技術者を引き抜いた当時よりはずっと大規模に行われていたと言われています。
シャープが30年を費やして開発した製造技術を僅か1年で獲得していきます。
技術者の引き抜き費用は、30年の開発費用に比べれば、只のようなものです。
サムソンは斯くして、高度技術をほぼ只当然で手に入れるノウハウを手にし、世界市場の60%を確保していたシャープをあっという間に追い抜き、液晶世界一の座につくことになります。

こういった手口は、サムソンが欲する技術分野のすべてに及びます。技術者の引き抜きに失敗し、事業をうまく立ち上げられなかったサムソンの担当者は解雇されます。日本の企業では考えられないような非情なサムソンの掟(徹底した成果主義)が背景にはあるわけです。

政府の支援を受け、このような不正競争行為を繰り返し、色々な分野(リチウム電池、太陽光パネル、有機EL、LEDなど)で次々と台頭してくるサムソンの巨大化を許してしまった日本企業の経営者の無能力さにも、その責任の一箪はあると思われます。
何百件と不競法で提訴すべきであったにもかかわらず、1件として提訴しなかったわけですから。日本ではやり放題と、嘗められても致し方のないところでしょう。

中国の状況

中国の戦後の復興も、韓国と同様、日本の支援から始まります。
1977年11月 - 新日鉄の稲山会長が訪中した際に、李先念副主席が新日鉄へ最新鋭の製鉄所の建設協力を要請。
1977年12月 - 上海宝山鋼鉄総廠が設立。
1978年 - ケ小平副総理が新日鉄君津製鉄所を視察。
1985年9月 - 製鉄所の1号高炉に火入れ。

この時の様子が、後に、山崎豊子の小説「大地の子」に描かれています。
新日鉄の稲山会長は、徹底的に中国を支援してゆくわけですが、その時の思いには、やはり日本が引き起こした日中戦争を詫びる気持ちが非常に強かったと言われています。
その後も、日本は、5兆円に上る中国へのODA支援を続け、中国における産業の発展に大きく貢献します。

中国では、1985年に専利法が制定されます。
米国をはじめ、世界各国へ弁理士の第1期生が派遣され、中国における知財時代がようやく幕を開けます。

2000年代

日本の状況

失われた30年、日本の凋落は、上記したように、主に通産省・日銀をはじめとする政府に責任があったわけでありますが、各企業においても知財戦略を全くと言っていいほど実際には実行してこなかったという落ち度はあります。
北京オリンピックがあった2008年頃までは、シャープが液晶の成功をもとに、世界でオンリーワン企業を目指すなどと、日本企業の中で一人気を吐いていたわけですが、上記したように、これも韓国企業の不正行為に何ら手を打てなかったことが主要因となり、瞬く間に世界首位の座を追われ、それがまた原因となって、業績不振に陥り、鴻海による買収にまで一気に追いやられてしまいます。

2002年、日本では、失われた10年の、日本の凋落傾向に終止符を打つため、「知的財産基本法」が制定されます。「知財創造立国」が標榜され、国や公的研究機関、大学や民間の研究機関等、国民こぞっての知財戦略強化が叫ばれました。

ところがどうでしょう。その「知財創造立国」実現の旗振り役であるべき特許庁はその頃、実際には何をしていたのでしょうか。
1999年の特許法改正により、審査請求期間が7年から3年に短縮されていました。
改正法の施行により、法改正後の新たな出願の審査請求は、3年以内に立ちあがってきます。
しかし、法改正以前に出願されていた出願の審査請求期間は、7年のまま残っています。

この結果、改正後出願の審査請求が3年で立ち上がってくると、改正前出願の審査請求期間の7年のうち4年分はどうしても重なってしまいます。
このままでいくと4年間だけは、審査請求件数が2倍となり、4年間は2倍の審査件数をこなさない限り、審査待ちの積み残しを大量に生じる、という切羽詰まった状況が迫っていました。

当時の特許庁の審査能力は約20万件。
出願件数が約40万件で、約半分の20万件に対して審査請求がなされていました。審査請求件数と、審査能力とのバランスがちょうど取れており、その当時、審査結果の通知書は1年以内にくるようになっていました。

しかし、このままでいくと、1年間で20万件、4年間で80万件の審査待ちの積み残しを生じてしまう。
このまま、何も手を打たないと、80万件はそのまま解消されることはなく、永遠に積み残しとして引き継がれてしまう。

これは審査請求期間の法改正時からすでに分かっていたことなのですが、素人長官の思い付きによる間違った法改正を認めて謝罪することはありませんでした。特許庁始まって以来の大チョンボを隠し通そうということで、以後、なりふり構わぬ審査負担軽減策を打ち出していきます。

まずは審査請求料を一挙に約2倍に引き上げるという暴挙。
2倍に値上げすれば、さすがに大企業であっても審査請求件数を維持できず、上手くいくと審査請求件数を半分に抑えられる、との安易な発想です。
ところが、この思惑は見事に外れます。ほとんど審査請求件数を減らすことはできず、やがて上記した状況(1年間で20万件、4年間で80万件の審査待ちの積み残しを生じ、80万件の滞貨を生じる)が、実際に生じてしまいます。

大幅値上げでもダメかと、特許庁は、さらに審査負担軽減のための、なりふり構わぬ政策を次々と打ち出していくことになります。
プロパテント政策である「知的財産基本法」を制定し、知財立国を目指した同じ省庁のやることとは、とても思えない状況が続きます。

次に、今までは、一旦いただいた費用はどんなことがあっても返したことがなかった特許庁が、審査請求を取り下げてくれるのであれば、審査請求料はお返ししますよ、と言い出します。驚きました。

次に、審査請求件数の削減ではなく、大本の出願件数の削減に乗り出します。
1990年代の初め、世界一となった出願件数を減らすためにAP80(公告率80%の実現)と呼ばれた政策が一時実施されました。これは、公告率(今で言う特許査定率)が80%以上となるように、レベルの高い出願に絞りなさい、無駄な出願はしないようにしなさい、お宅の会社は無駄な出願が多いですよ、と、知財に素人の社長を直々に特許庁長官室に呼びつける、行政指導的政策です。
これと同じような行政指導的政策を、再び出願件数上位100社位の社長を特許庁長官室にお呼びしてやり始めます。

次に、拒絶理由通知の際、まず、必ず「発明の単一性の要件を満たしておりません。単一性を満たしていない請求項については、審査の対象から外しており、審査を行っておりません。」として、審査負担の軽減を図ります。 すべての請求項分の審査請求料を払っているにもかかわらずです。審査がされていない請求項分の料金は返してほしいですよね。

さらには、今まで聞いたこともないシフト補正などと言い出し、シフト補正された請求項についても審査を行わなくなります。これも審査負担軽減策の一環です。

このように、これでもか、これでもか、と、あらゆる手段を繰り出し、審査負担の軽減を図ります。
御蔭で、日本の出願件数は、最盛期の45万件から、最近では30万件を切るようになり、35%の大幅な出願件数の削減に成功します。

見事な特許庁の知財立国政策です。
世界中の各国がプロパテント政策の下、出願件数を大幅に増やしていく中、日本だけは一人我が道を行く。で、表面上は「知財創造立国」というプロパテントを装いながら、出願件数を減らすために、アンチパテント政策を次から次へと打ち出していたわけです。
特許庁は、知財の失われた20年を見事に演出して見せたといえるでしょう。

中国の状況

中国は、1970年代から1980年代にかけ、主に日本のODA支援を受け、まずは、鉄鋼、造船、建築と、韓国と同様の産業発展の道のりを辿っていきます。
特に円高不況による日本企業の中国進出を契機として、徐々に世界の製造工場としての地位を固めていきます。
輸入品には大きな関税をかける一方、徹底した輸出振興策を図ります。
中国での製造を促進させ、出来上がった製品を、中国から世界中に輸出させる政策の実現です。
この政策の実現が、やがて現在の、米中貿易戦争へと繋がっていきます。

しかも、外国企業が中国で製造する場合には、中国企業との合弁形成を義務付け、中国企業の製造技術の向上を企図します。
中国で物を製造するには、中国企業にノウハウも含め、製造技術を教えなければならないわけです。しかも技術移転契約書などはすべて中国政府に報告・登録しなければならないのです。

日米欧では考えられない状況ですが、こういった政策の下、中国企業は外国企業の技術指導を受け、どんどん技術力を向上させていくことになります。
これが、やがて、米中貿易戦争で、トランプさんの代になってようやく、知的財産の搾取の問題としてクローズアップされ出します。

1985年の専利法の制定以後、それなりに大幅に特許・実用新案・意匠・商標の出願件数は増えていきます。
しかし、驚くほどの異常な出願件数の伸びを見せたのは、やはり中国版「知的財産基本法」である、「国家知的財産権戦略綱要」なるものを2008年に出してからです。

中国の特許出願件数が急増している

上記グラフでは特許出願のみが表示されていますが、中国では実用新案の出願件数が特許出願の件数を上回っており、その結果、特実、合わせると、年間300万件を超える世界一の超特許大国になってきています。

特許出願の伸びは、通常、研究開発の成果としての出願ということで、研究開発費の伸びとほぼ比例します。
中国におけるこの出願の伸びは、研究開発の成果の伸びとしては説明がつきません。

中国では一体何が起こっているのでしょうか。
上記「国家知的財産権戦略綱要」とほぼ同時に出された、「ハイテク企業認定制度」にその秘密がありました。

ハイテク企業に認定されると法人税が25%から15%に大幅に減税されます。そしてこの認定条件の一つに、特許、実用新案、意匠などの知的財産権の取得が必須として含まれているのです。
法人税が25億円から15億円に減税されるのであれば、出願費用に2億円位かけても十分、元が取れてお釣りがくるというわけです。
研究開発の成果とは関係なく、減税措置を受けるために、何が何でも出願を増やせとなってきたわけです。
実質、出願費用は政府持ち、の政策です。
出願しないと損をする状況を「ハイテク企業認定制度」で作り出したわけです。

さらに中国政府は、PCT出願に関しては、特許1件につき、最大5か国まで、1カ国約200万円、の費用を補助する制度も始めます。
件数は無制限です。
中国政府はPCT出願を含めた特許出願費用に関し、1兆円を超える補助金を出すのと同様の政策に乗り出します。

これでは出願しない企業は馬鹿を見るわけです。
ということで、2008年以降、上記したグラフの伸びが実現されていきます。

中国は、日本の「知的財産基本法」を見習い、「国家知的財産権戦略綱要」なるものを2008年に出したわけですが、日本の装いプロパテント政策、実質アンチプロパテント政策とは異なり、本物のプロパテント政策が実行されたわけです。
物の製造のみならず、明らかに知財の世界でも、世界制覇をしていこうという、政府の強い意志が感じられます。

では、知財でも世界制覇、のきっかけは一体何だったのでしょうか。
1990年代の後半には、多くのブランド品の製造委託を受け、日本を凌ぐ製造大国になっていました。
しかし、ある共産党幹部の発言があったのです。
「我々はいくらいいものを大量に生産してもほとんど儲からない。利益のほとんどは外国企業にライセンス料として持っていかれる。」
この発言は、携帯電話の標準規格特許のライセンス料の支払いに関してなされたものです。

以後、携帯電話に関する国際通信規格などのあらゆる国際標準規格競争には絶対負けないこと、知財戦略を強化し、ライセンス料を逆に外国からもらえるようにすること、が国策となります。
国策を立てると、それを必ず、すぐ強力に実行に移していくところは、中国政府のすごいところです。
政府のODA支援と抱き合わせの、現在のファーウェイにおける5G規格世界戦略となって現われてきています。

しかし、今までの高度技術の導入に関しては、基本的に韓国サムソンの流儀を手本としています。

現在、白物家電では世界一の企業にまで成長してきたハイアールでありますが、そのCEO・張瑞敏は、松下幸之助を経営者として最も尊敬しているそうです。松下幸之助に関する書物はすべて読んだと言っています。
松下幸之助は経営者としてのみでなく、自ら発明者としても活躍したわけですが、その意志を張瑞敏は、引き継いでいるように思われます。
不良品の冷蔵庫を製造した従業員に、自らそれを叩き壊させた話は有名ですが、知財に関するエピソードも色々あります。

関連する技術分野の日本で公開された特許文献は、その日の内にすべて中国語に翻訳させていたといいます。役員会の資料として用意させ、役員会では、役員全員にその資料に目を通させるわけです。
その中から、ハイアールが採用すべき技術を決めていきます。日本の特許文献は技術文献として宝の山であり、それを調査・研究しない手はないというわけです。日本の経営者の中で、これほど特許文献を読みこなす経営者はいるでしょうか。

また、日本人技術者の採用についても有名な話があります。面接審査をする前に、まず、「あなたが持っている技術・ノウハウをすべて書いて提出してください。」と伝えるわけです。
「それを見たうえで、あなたが面接審査を受けるに値する人物であるかどうかを判断します。つまらないノウハウしか持っていない人は、面接審査に進むことはできません。ハイアールでは、現在、当分野では日本一の技術者しか必要としていません。」と言われたというのです。

これらの事実によれば、もちろん、特許権を侵害していることも多いでしょうし、不正競争行為も形成されています。
しかし、ハイアールは日本企業から特許権侵害で訴えられたことはありませんし、不競法違反で訴えられたこともありません。
上記した韓国サムソンに対する日本側の対応と、同様の日本側の対応となっています。
逆に言うと、ハイアールは、韓国サムソンに対する日本側の対応をよく研究していたからこそ、こういったことが堂々とできたということでしょうか。

日本が主に開発した、半導体技術、液晶技術、太陽光パネル、リチウムイオン電池、有機EL、LED等、すべてのものが韓国、中国にすぐに追いつかれ、追い抜かれていく現状を見て、高度技術製品であってもすぐにコモディティ化すると評論家などはよく言っています。が、しかし、それは本当でしょうか。

製品・技術のコモディティ化

少し古い話になりますが、新日鉄が、浦項製鉄所、上海宝山鋼鉄総廠の建設に協力していなかったらどうでしょうか。数年くらいの遅れでもって、同様の最新技術が導入された製鉄所を、韓国・中国は独力で稼働できていたでしょうか。

当時の韓国・中国の技術レベル状況を見る限り、日本からの技術供与が全くなければ、10年や20年の遅れでもって開発・建設できていたとはとても思われません。逆に、永久に日本の技術には追い付けてなかった可能性の方が高い、と考えるのが自然なのではないでしょうか。

日本からの技術供与を全く得ることのなかったお隣の北朝鮮が、ちょうどよい比較例となります。
日本からの技術供与を得ることができていなければ、当時の状況からして、韓国・中国も現在の北朝鮮状態にとどまっていたと考えるのが自然でしょう。
当時の新日鐵の協力がなければ、現在の韓国・中国の産業の発展はあり得なかったでしょう。

次に、新幹線の場合について考えてみましょう。
当時、中国は新幹線を中国全土に走らせるべく、新幹線建設を競争入札していました。
その競争入札に参加していたのは、日本とドイツです。
中国は、新幹線車両、購入条件の一つとして、新幹線技術のすべてを教えること、を挙げていました。
ドイツは革新的技術まですべて教えられるわけがない、と、さっさっと競争入札から下りてしまいます。
残ったのが、日本のJR各社です。
JR東海は、中国の狙いは明らかである。車両一編成を購入してもらうために、中国に最新の新幹線技術まで提供すべきでない。と、主張します。
しかし、どうしても車両を売りたかった事情があったと言われていたJR東日本は、JR東海の説得にもかかわらず、中国に、一車両編成を買ってもらうためだけに、新幹線技術のすべてを懇切丁寧に教えてしまいます。

その後、どうなったでしょうか。
中国が購入してくれたのは、たったの車両一編成のみ。
後は、日本の敷設総距離の何倍にもなる距離の線路を、1億人ともいわれる得意の人海戦術で、あっという間に、敷設してしまいます。
新幹線車両も、日本の何十倍もの量、すぐに生産してしまいます。挙句の果てに生産したそれらの車両を、世界各国へ売り出します。
これは、JR東日本からすると、明らかに契約違反だそうです。

さらに、驚いたことには、中国政府の知財戦略に則り、日本に教えてもらった技術を世界中に特許出願しだしたのです。これには、さすがのお人好しのJR東日本も黙っているわけにはいかず、それは契約違反行為であると主張します。
この発言を受けた中国当局は、『特許出願している技術は日本から教えてもらった技術についてではなく、中国が独自に開発した技術についてである。』という見解を、しゃあしゃあと発表します。

インドネシアをはじめとするアジア諸国、アフリカ諸国、米国をはじめ、世界各国で計画されている新幹線導入計画に、中国政府丸抱えのODA支援付きで、建設にお金は掛かりませんと、安さを武器に日本新幹線の駆逐を目指します。
どう考えても、少しどころか大いにやりすぎですよね。
これが、現在の中国政府の仁義なきやり方です。

これらは、現在のファーウェイ問題にもつながっています。
5G通信設備網を整備するためには巨額の資金が必要になります。開発途上国ではこのような巨額の資金を用意できるはずもありません。
ここを見切って、中国政府は、5G通信設備の建設費用は、中国政府のODA支援として提供し、ファーウェイによる5G通信設備での世界制覇を目指しています。

さて、高度技術製品であっても、すぐにコモディティ化するかの命題に戻りますが、新幹線技術についてはどうでしょうか。
明らかにノーと言えるのではないでしょうか。
日本で新幹線が開通して40年以上の月日が流れていました。それでも、中国は独力で開発してコモディティ化するには程遠かったからこそ、日本にその技術のすべての提供を求めてきたのです。

以後、中国の日本に対する態度が大きく変わってきたな、と感じたのを記憶しています。
新幹線技術さえ手に入れることができれば、もはや、日本に大きな技術供与をお願いしなければならないことはなくなった。といった態度に変わってきていたのを、私は敏感に感じ取っていました。
この新幹線技術の供与は、JR東日本の、日本にとっての、取り返しのつかない大失策であったと言えるでしょう。

次に、NAND型フラッシュメモリについて、上記命題を検討してみましょう。
NAND型フラッシュメモリは、1986年に東芝の舛岡富士雄氏により発明されたものです。NOR型に比べ、回路が小規模で高集積化に向いており、同世代で比較すると、大容量で安価な製品が供給されます。また、書き込みや消去を高速で行うことができる優れものです。
NAND型フラッシュメモリの製造技術はとても難しく、永らく東芝だけが製造できていました。

その後、サムソンが上記した不正競争行為の末、ようやく製造できるようになります。自力での開発・コモディティ化は実現できていません。

中国は半導体技術については、現在でもほとんど獲得できておらず、米・韓・台に比べるとかなり遅れています。米国とのハイテク競争に勝ち抜くためには、NAND型フラッシュメモリの製造技術の獲得は欠かすことのできない至上命題となっています。
そのため中国政府は、1兆円近い巨額の資金を投入し、最新鋭の半導体製造工場を、中国におけるサムソンのNAND型フラッシュメモリの製造工場の近くに建設します。
その意図は明らかでした。いくら最新鋭の製造設備を導入しても、自力での開発・製造は無理と判断し、サムソンが東芝から製造技術をいただいたように、今度は、中国がサムソンから製造技術をいただこうというわけです。

このあたりの状況を見て、評論家の一部の人達は、中国もまもなくNAND型フラッシュメモリの製造技術を手に入れるだろう、との予想を書いていました。高度技術であっても必ずすぐにコモディティ化するものであると。 私は、この記事を見て、これをコモディティ化というのか、と、あきれたものです。

しかし、いくら経っても、巨額の資金を投入して建設された製造工場から、NAND型フラッシュメモリの製造に成功した、とのニュースは流れてきません。

サムソンは自分がしてきたことの経験から、やり返されることを十分に考慮した社内規定を設けています。サムソンの技術者には、技術流出に関し、世の中からの抹殺にも等しい厳しい罰則規定が設けられているのです。

サムソンの掟は、お人好しの日本企業のそれとは全く違うということを、中国は見誤っていたのです。
巨額の資金投入を無駄にすることは、プロジェクトの責任者にとっては、社会的破滅を意味します。何が何でも成功させなければなりません。サムソンからの技術搾取に失敗した責任者は、次にどのような手を打ったのでしょうか。
製造工場からは、やがて、『日本半導体の第1人者をトップに迎えることになりました。』との発表がなされるのです。

以上の例からすれば、高度技術は、しっかりと守られていさえすれば、そう簡単にコモディティ化するものではない、ということをお分かりいただけたと思います。

開発されて100年以上が経つガソリン・ディーゼルエンジン技術に関してもそうです。
中国は、いくら頑張ってもガソリン・ディーゼルエンジンでは、先進国の技術に追いつくことは不可能、と判断したのです。
だからこそ、電気自動車に舵を切り、先進国とスタートラインを揃えられる電気自動車で勝負しようとしているのです。
高度技術は、100年経とうが、決してコモディティ化などしないのです。

最近では、中国政府は、軍部の超エリート集団を中心に、年間1000億回(日本にはそのうち約300億回)を超えるサイバー攻撃を、主に高度技術入手のために仕掛けていると言われています。
中国は、高度技術を手に入れるためには、サイバー攻撃のみならず、スパイ大作戦並みの優秀な産業スパイを暗躍させ、命を懸けた戦いを、日夜、繰り広げているのです。ファーウェイがよい例です。

日本政府は、ここまで日本産業の発展のために命がけの努力をしてくれているでしょうか。
そう考えると、中国政府の政策立案力・実行力には感服致します。
失われた30年については、まずは、日本政府に今までの政策ミスを、正直に、偽らず、よく反省してもらうべきでしょう。
そのうえで、今後、世界の国々から、『日本の失われた40年、50年』などと言われることのないように、しっかりとした政策論議をし、中国政府に負けない政策実行力を発揮して頂きたいと思います。

日本の経営者

最後に、厳しいグローバル競争時代における、日本の経営者について考察してみます。
少し前までは、基本的に日米の競争で考えれば済んでいたのですが、グローバル化時代を迎え、高度技術の獲得には手段を選ばず、不競法違反は当たり前の韓国・中国が競争に加わってきております。さらには欧・印も競争に参戦してきております。

知財経営戦略

このあたりを考慮すると、まず、経営者には、
・サイバー攻撃から、技術情報を守れること、
・高度技術所有者のリストラを極力避け、社内規定を整え、技術流出を阻止できること、
・権利侵害には迷わず権利行使をしていくこと、
が求められている。と言えます。

十分、知財戦略を描け、技術流出を阻止できる経営者でなければならない時代になっていると思われます。
特許文献には自らすべてに目を通し、開発方針を指示できるハイアールのCEOほどではないにしろ、自社の技術力、知財力は十分把握できていなければなりません。

その上で、技術流出は何としても防ぐ方策を立てておかなければなりません。これには、技術者を大切にし、安易にリストラしないことも含まれます。
技術流出の主要因は、リストラ対象となった技術者です。
社長さん、業績不振になると、すぐ安易に、まずはリストラ等と考えていませんか。
そこから技術流出は始ります。あなたの会社が所有する高度技術も韓国・中国に狙われているかもしれません。技術流出の防止策は万全ですか。

グローバルな視点で考えれば、日本の経営者のグローバル・ビジネスモデル構築能力は相対的にかなり低下傾向にあると思われます。

アップルは、スマホ事業の大成功により、世界的大企業へと変身を遂げました。スマホは、携帯電話技術にiOSを組み合わせたものです。
それまで、携帯電話技術には素人とも言えたアップルが、携帯電話の要素が半分を占めるスマホを製造することに、なぜ成功したのでしょうか。
ある意味、異業種参入をなし遂げて急成長したわけです。携帯電話業界は、今までは、極めて異業種参入が厳しい業界であったと言えます。

強みを活かして、弱みを消す。
アップルは、基本的にiOSしか開発していません。携帯電話技術も自前で開発して参入しようとしていたら、10年後でも厳しかったかも知れません。
そこで、アップルは、携帯電話技術については独自開発することなく、通信機器、半導体大手のクアルコムに全面的に頼ることにしたわけです。
これで、携帯電話技術に関する特許権侵害の事態の発生も基本的に避けることができました。クアルコムは膨大な量の特許権を取得しており、これを利用させてもらった形です。
このことにより、アップルは弱みを消すことができました。後はiOSを組み合わせることにより画期的な製品の開発に成功することになります。
日本では、NTTドコモがiモードなるものを開発し、既に画期的な携帯を販売していました。当初は、iモードとかぶるiフォーンの導入を拒否していたNTTドコモです。が、しばらくすると、取り扱わさせて欲しいと、アップルに頼まざるを得ない製品として世に送り出されてしまっていたのです。

このアップルのビジネスモデル構築力が、私がいうところのグローバル・ビジネスモデル構築力と言うことになります。

グローバル・ビジネスモデル構築力

これに対し、日本企業経営者のグローバル・ビジネスモデル構築力はどうでしょうか。
特に大手企業にありながら、グローバル・ビジネスモデル構築戦略を十分に描けないようなら、その人達は経営者に就くべきではないでしょう。
アップルについて上記しましたので、携帯電話を例に取って少しお話し、しましょう。
ガラケーと言われる時代の携帯電話を製造していた日本企業は、例外なく、大手企業です。
ところが、その大手企業が、スマホの時代になると、一気に姿を消してしまいます。
これはひとえに、大企業でありながら、小さいながらも安定していた日本市場のみに頼り、NTTドコモのiモードに縛られ、世界市場には目を背け、グローバル戦略を描いてこなかった、経営者に責任があると思われます。

アップルに対抗して、半年後、まずはサムソンがスマホの製造を開始します。やがて、ガラケー時代には影も形もなく、技術力もなかった、中国のシャオミーや、ファーウェイなどが台頭してきます。

では、逆に、サムソンや、中国のシャオミー、ファーウェイは、なぜ、アップルに対抗して、スマホ市場参入をすぐに果たすことができたのでしょうか。

サムソンは、元々、ガラケー時代からのグローバル携帯電話メーカーです。ですから携帯電話技術については、アップルよりも技術力を備えていたわけです。特許権も多く取得していました。後の、アップル―サムソンの特許裁判では、これらの携帯電話技術に関する特許権でアップルを提訴していくことになります。
しかし、iOSは使わせてもらえません。そこに助け舟を出したのがグーグルのアンドロイドです。これでサムソンは、いつもの手段であるリバースエンジニアリングを徹底的に実施することにより、アンドロイド搭載のスマホの製造を半年後には開始することができたのです。
このため、アップル―サムソンの特許裁判は、アンドロイドを提供したグーグルの代理戦争と言われました。

では、なぜ、携帯電話技術もiOSも持っていなかった、中国のシャオミーや、ファーウェイは、スマホ市場にすぐに参入できたのでしょうか。

アップル製品の製造は中国の鴻海が一手に引き受けていました。
何の製造技術も持たないシャオミーや、ファーウェイは、鴻海に製造を委託します。
携帯部品はクアルコム、ソフトはアンドロイドを採用し、鴻海に製造を委託しさえすれば、何の苦労もなく、アップル製品と同等の品質の製品を製造することができたのです。
裁判は、サムソンが一手に引き受けてくれています。
アップルは、シャオミーや、ファーウェイにまで手が回りません。

アップルの一つの弱みは、こう考えると、製造委託態勢にあったのです。
このため、中国勢にすぐの追撃を許してしまったのです。
アップルが自前の製造工場を持ち、製造技術を秘密にできていたら、シャオミーや、ファーウェイは、製造する術を持つことができておらず、現在の世界の状況は大きく変わっていたことでしょう。
アップルは、ファーウェイに、昨年、世界シェア2位の座を奪われてしまいました。

日本の経営者には、スマホにしろ、打倒サムソン、打倒ファーウェイの心意気、グローバル戦略を描ける人になっていただきたいところです。 5G通信機器に関してもそうです。打倒ファーウェイ、打倒サムソンの心意気、グローバル戦略を描ける経営者に出てきてほしいところです。

経営判断のスピード

日本の大企業の経営者は、サムソンや中国企業の経営者に比べると、経営判断のスピードが、圧倒的に遅くなってきていると言われています。

経営意志への執念、迫力

グローバル事業戦略・目標を立てて実行してゆく際の意志の強さと言うか、迫力というか、その辺りも圧倒的に負けてきていると思われます。
実際のところ、この、何が何でもという、「意志の強さ」が経営者には最も大切なところかも知れません。意志が強ければ、色々と戦略・アイデアは出てくるものです。
社長レースに精力を使い果たしてしまい、社長に辿り着いたころにはすでに灰化が進んでしまっている、としか思えないような社長さんが急増してきている状況ではないでしょうか。
本当の勝負は経営者になってから、です。

第4次産業革命

第4次産業革命といわれる時代を迎え、AI、IoTを駆使した事業戦略を立てることができる経営者が求められています。
また、第4次産業革命時代に入り、以前、日の丸半導体と言われていた時代とは、けた違いの半導体需要(100兆円規模)が生まれてきています。
以前は、日米半導体協議における日本政府の失策により、日の丸半導体は世界市場から余儀なく撤退させられてしまいました。が、現在は状況が変わってきております。学習効果もあり、再び、日本政府が失敗する確率は低いと思われます。
過去の失敗に学び、もう一度、日の丸半導体を結成し、世界制覇を目指すべき時と思われます。

また、TRON(The Real‐time Operating system Nucleus)は、元々、すべてのものがインターネットにつながるユビキタス時代を先取りして開発されたソフトです。まさに、第4次産業革命時代向きのソフトなのです。 私と同年代である、発明者の坂村健氏がまだお元気なうちに、もう一度、表舞台に出てきていただくべき時です。
今度は、多くの開発者を雇用するためにも、企業・ビジネスとしての形態を整え、フリーソフトとはせず、稼げるソフトとし、技術力でグーグルを圧倒すべきときです。

このあたりが実現し、上記したような経営者達が出てくれば、日本が、再び、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われる時代を迎えることも決して夢ではありません。

知的財産権は極めて多くの事柄と密接に関係し、
複雑化し、中国の台頭も大きく絡み、
国際的に重要性をますます増してきています。

グローバル事業戦略・知財経営戦略に少しでも不安のある経営者の方は、遠慮なく、弊所所長の井内までご相談ください。 豊富な経験に基づく何らかの示唆を必ずや得ることができるでしょう。


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